Pharaos - 古代エジプトの王、ファラオ
ファラオ(Pharaoh)は、古代エジプトの王の称号です。神の子とされ、国家の最高権力者として政治・宗教・軍事をすべて統括していました。
【クフ】第4王朝(B.C 2509~2483)
即位名:Khufu「我は守護されている」
ギザの三大ピラミッドのうち、一番大きなピラミッドを建造したことで知られる。
クフ王という呼び名で親しまれているが、本来は「クヌム・クフ」であり、「クヌム神に守護されている」という意味。
大きなピラミッドとは裏腹に、彼自身の像として知られているものは、とても小さなものや壊れているものなどが数点あるのみ。
【ハトシェプスト】第18王朝(BC.1473~1458)
即位名:Maat ka Ra「ラーのマアト(秩序)とカー(生命力)」
数少ない女性ファラオとしてエジプト史に名を残している彼女。夫のトトメスⅡ世亡き後、幼かった後継者のトトメスⅢ世の摂政として政治の実権を握っていたが、トトメスⅢ世の治世7年頃にファラオとして即位した。
トトメスⅠ世を父に持つ彼女は、自身の葬祭殿に王位の正当性をアピールする碑文を刻み、ホルスの化身としての男装をして、民衆の前に立っていた。
フランキンセンスの産地であるプント(現在の南スーダンからエリトリアにかけての紅海沿岸)との交易に力を注ぎ、数々の珍しい動植物や貴石を輸入していたことで知られる。また、建築活動も積極的に行っており、とくにカルナックのアメン大神殿に設置したオベリスクは、現存するオベリスクの中では最大の大きさ(高さ30.43m)を誇る。
【トトメスⅢ世】第18王朝(BC.1479–1425)
誕生名:Djehutimes nefer kheper「トトが産んだもの、美しい姿」
父トトメスⅡ世の死後、若くして即位。トトメスⅡ世の妃であるハトシェプストが女王として即位してからは、共同統治を行っていた。
彼はエジプト史上最も領土を広げたことで知られており、治世第42年まで17回にわたって毎年西アジア遠征を行ったことから、「征服王」「古代エジプトのナポレオン」とも呼ばれている。
【ツタンカーメン】第18王朝(BC.1332–1323)
即位名:Neb kheperu Ra「ラーの出現(姿)の主」
誕生名:Tut ankh Amun heqa Iunu shemai
「アメンの生ける似姿、南ヘリオポリスの支配者」
日本で知られる「ツタンカーメン」の呼び名は、誕生名である「Tut ankh Amun(トゥトゥ アンク アメン)」が呼びやすくなったもの。父であるアクエンアテン(アメンホテプⅣ世)が、アテン神のみを信じる一神教へ改革を行ったことで、彼が即位した当初は「Tut ankh Aten(トゥトゥ アンク アテン)」という名前も使っていた。しかしアクエンアテンの宗教改革は失敗し、再びアメン神をはじめとする神々への信仰が再開する。
父の死後、混乱していた世の中で、若干8歳で即位したといわれ、わずか18歳程度の若さで亡くなった彼は、どのような生涯を送ったのだろうか。
【セティⅠ世】第19王朝(BC. 1290~1279)
即位名:
Men Maat Ra, heqa Waset
「永遠はラーのマアト(秩序)、テーベの支配者」
誕生名:Seti, mer en Ptah「セティ、プタハに愛されし者」
ラメセスⅡ世の父。名前の「セティ」は、兄オシリスを殺したことで悪神とされているセト神のこと。
古代エジプトではオシリス信仰が厚かったので、セティⅠ世はかなり気を使っていたようだ。葬祭殿に刻まれている彼のカルトゥーシュ(王名枠)には、セト神の姿ではなくオシリス神の姿が描かれ、それでセティと読ませている。
彼は、アテン神以外を認めなかったアクエンアテンの統治時代に破壊された、数々の神々の図像の修復も積極的に行った。また、オシリスの聖地アビドスに、オシリス神の空墓「オシレイオン」を造営したことでも知られる。
彼の王墓は、王家の谷の中でも特に内装が素晴らしく、今でも色鮮やかなレリーフを見ることができる。
【ラメセスⅡ世】第19王朝(BC. 1279~1213)
即位名:User Maat Ra, setep en Ra
「ラーのマアト(秩序)は力強い。ラーに選ばれし者」
ギリシャ語名「オジマンディアス」で親しんでいる方も多いファラオ。
父親であるセティⅠ世との共同統治ののちに即位した。
エジプト史上最大規模の総勢約2万人もの兵が招集されたという「カデシュの戦い」の後、世界最古の和平同盟条約を締結したことで知られる。
「建築王」と呼ばれる彼は、カルナックのアメン大神殿の大列柱室や、セティⅠ世の葬祭殿を完成させたり、ルクソール神殿への増設をしたり、自らの葬祭殿ラメセウム、そしてアブ・シンベル神殿も建造した。
また、中王国時代からの歴代のファラオたちの建造物に自分の名前を彫っていることも多くあり、様々な遺跡で彼の名を見ることができる。
【クレオパトラⅦ世】プトレマイオス朝(BC.51~30)
誕生名:Qliu pa dra netjeret meret ites
「父に愛された女神クレオパトラ」
絶世の美女といえば誰もが思い浮かべるのが、女王クレオパトラⅦ世である。
弟のプトレマイオス13世と共同統治を行ったが、ローマに操られていたプトレマイオス13世によってパレスチナに追放された。
しかし、カエサルを味方につけてプトレマイオス13世を倒し、もう1人の弟であるプトレマイオス14世と名目上の共同統治を行うことになる。
その後、カエサルが暗殺されたことで地中海世界支配の野望が頓挫したクレオパトラは、プトレマイオス14世を殺害し、カエサルとの息子カエサリオンをプトレマイオス15世として即位させた。
そして様々な策略によってローマのアントニウスと手を取り、王朝を存続させようとした。アントニウスとの間には双子が生まれている。
最後は、ライバルであるオクタウィアヌスとの戦いでアントニウスが敗れ、アントニウスは自殺。クレオパトラⅦ世もその後を追って自ら命を絶った。
古代エジプトが終焉に向かう激動の時代を生きた彼女は、その美貌によってカエサルやアントニウスを虜にしたと言われることが多いが、数か国語を自在に操り、参謀術数に長けた才女であり、その生きざまなどによって、周囲の人々が彼女の虜になっていたのではないか。